「旅の宿家」鳥取境港❝縁❞ ブログ(^^♪

とにかく「旅」が好きな自由人。
「旅そのものと境港・水木しげるロードを楽しむ」に拘った「旅の宿家」(ゲストハウス様式)を、2016年8月26日にオープンしました。
https://guesthouse-en.jimdo.com/
女性客とファミリー主体の”遊び心”いっぱいの寛ぎの空間です!
米子や大山、松江、美保関、隠岐などへの起点としても生かせる「妖怪と魚の町」を楽しんでください!

こんなに楽しい! 妖怪の町③

≪「お金をかけた大規模なイベントではなく、この町らしい、心のこもった、手づくりのイベントで妖怪を身近に感じてもらいたいと思っています」
水木しげるロード振興会の会長の野々村久徳さんは、こう語る。
自然の残るところにしか住めないのが妖怪だ。だからこそ、人肌のぬくもりが感じられるイベントにこだわっている。≫


≪「無理をせず、背伸びせず、自分たちも観光客も妖怪を楽しんで、町をにぎやかにしていけたらいいと、思っています」(水木しげるロード振興会会長 野々村久徳さん)≫


初期のころは平日や閑散期に訪ねることが多かったので、私はイベントにはあまりかかわったことがなかった。でも、初代振興会長の野々村さんから、さまざまな話を伺い、写真などを見せていただくだけで、その楽しさと温もりは、十分に感じることができた。


「楽しいところには、放っておいても人は来る」。
それが水木先生そのものの「原点」で、だからこそ「楽しい町」が出来上がったのだ。


そして自然に、この町を訪ねるときは、せかせかと動き回ることなく、「寛ぐ」ために来て、ゆっくり過ごすようになった。
それができる、飾り気のない普段着の町。でありながら、やはり日常から離れ「旅」として訪ねたくなる町だった。


≪もはや、お金さえ出せば、お気に入りの故郷が手に入るのではないかと思うくらいたくさんの故郷が、日本全国に点在する。けれど、その多くの場所には、どうしても薄っぺらさがつきまとっているようなきがしてならない。人々の作為が感じられるそうした故郷には、やがて忘れ去られ、捨てられ、消費されてしまうだろうという匂いがする。
境港は、それらの町と明らかに一線を画している。どこからどう見ても本物なのだ。本物という言葉が晴れがましすぎるなら、普段着だといかえてもいい。≫


そう、10年くらい前までの境港・水木しげるロードは、全く「作為」がなかった。
「自然体」のまま、旅人を迎え入れていた。
だから「薄っぺらく」もなかったのだ。


≪境港は、かつては日本全国、どこにでもあった、ごくありきたりな、地方の商店街に、水木妖怪のブロンズ像がずらりと並んだだけの町である。
だが、一度、訪ねれば、なるほど、だからこそ、境港に人々が魅了されるのだと感じずにはいられない、何かが確かに存在する。これまでの「観光」の概念をがらりとひっくり返してくれる町、それが境港なのである。≫


境港への“実質的な”観光客数が減り続けているのは、この「本物」感、「普段着」の姿が徐々に薄れてしまったためだと、私は思っている。
6年前、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」が放映されるまでは、まだ町はぎりぎり「普段着」の姿だったと言ってもいい。だが、大きな「ブーム」をつくってしまったために、普段着を脱ぎ捨てて余所行きの着物をまとってしまう人が増えてしまった。そのために『どれがどれか区別がつかないほどよく似たお土産屋さんがざわざわと軒を連ねる町』っぽく変貌してしまい、そこに集う人も、普段着に魅了されていた「本物の旅人」から、余所行きを楽しむような薄っぺらい人たちに取って代わった。
まだ、町の人の中にも、旅人の中にも、「原点」への想いを持ち続けている人はいるけれど、それは伝わることなく、むしろ埋もれてしまっている。


それが危険なことだと、気づいていない人も多い。
そう、「原点」を知らない人たちは――。


今、持ち上がっている水木しげるロードの大リニューアル計画。
あらためて記すが、観光客に飽きられることなく楽しんでいただくためにも、リニューアルが必要な時期に来ているとは思う。
だが、方向性を間違えば、ここに書かれているようなことが消えてしまい、水木しげるロードの「原点」は残らない。せっかくの「オンリーワンの町づくり」が、なくなってしまう可能性もあるのだ。


私は「旅人」と一緒に楽しいことをやりたい。
自分にとって「旅」の聖地だった町を、「日常」に変えたのは、「旅」で訪ねるだけでは飽き足らなくなったからだ。
本来は楽しいことができる町だからこそ、移り住んで、そのための空間づくりに励んでいる。
20年以上いろんな地を旅してきた中で、自分にとって境港・水木しげるロードが唯一、「旅」だけでなく「日常」にしたいと感じる町だから。


だから今、この町で過ごしている。


この本に書かれていることの大切さを、もう一度、町全体で見直したいものだ――。

(終わり)